生い立ち
2010年
4月
06日
火
第7話「相撲」
我が家には土佐犬が3頭〜4頭いました。 犬好きの父の趣味です。
父は現場が終わり、家にいる時は朝に夕に犬の運動をするのが日課でした。
世間の家では『犬の散歩』といいますが、我が家では『犬の運動』と言っていました。
犬と言っても土佐犬ですから、父と犬の力比べのような格闘に近いものでした。
それを3頭も4頭も毎日の日課ですから、父の体力は私の知る限りどこのお父さんよりも
はるかに強いお父さんでした。
私は物心がついた頃から父や若い衆が腕相撲をする姿を見てきましたが、
父が負ける姿は一度として見たことがありません。
幼かった私にとって父はスーパーマンのような存在でした。
自慢したことはありませんでしたが、誰よりも強い父は密かに自慢でした!
犬の運動コースの途中に神社があります。 境内に入り犬を木につなぎ休憩をします。
父にとっては毎日楽しみの場所だったようです。
境内に入るとすぐ左に土俵があります。
近くの “工業高校相撲部” の練習場になっていました。
父はそこで学生達の練習を眺めているのが好きだったようです。
“工業高校相撲部”は県内「NO 1」の実力で、毎年「全国大会」に出場していました。
夕飯の時に父は相撲部の連中の話をよく聞かせてくれました。
一度も会ったことが無いのに、私には父よりふた回りも3回りも大きい高校生1人1人の
風貌が目に浮かび、父の話に聞き入っていた記憶があります。
そんなある日、練習を眺めていた父に大柄な部員が近寄ってきて、
「おっさん、毎日来よるけど相撲好きなんかね?」
「ああ、おっさんは飯より相撲が好きなんよ! 毎日見よるけどお前等強いのぉ!」
「おっさんこそ大きな犬連れて凄い筋肉しちょるやん、俺と一番とって見らんね?」
「いやいや練習の邪魔しちゃ悪いけんのぉ・・・」と言いながら
父は立ち上がって土俵に上がったそうです。
キャプテンと言うその大柄な部員は、小柄なおっさん相手に油断したのか
あっけなく土をなめたそうです。 部員達は驚いたでしょうね。
その後2番とって『2勝1敗』で父に軍配が上がったそうです。
自慢げに帰ってきた父の顔を今でも思い出します。
その後も毎日犬を連れて行っては学生達と相撲を取っていたようです。
そんな頃に息子が漫画家になりたいと言い出したのです。
「馬鹿なことを言わず儂の跡を継げ!」と、聞く耳を持たない父に
若い衆が今夜の飲み代を掛けての相撲勝負です。
力自慢の若い衆が勝てば全員の一晩の飲み代は親方持ち、と、盛り上がった一番。
がっぷり右四つの五分の体勢。
若い衆が腰を振って親方の手を切ろうとした瞬間に引き付けられ、腰が浮いた若い衆は
足を払われあっと言う間に倒れていました。
「ああ〜〜〜・・・」と、一同の大きなため息が・・・。
その時でした、若頭が
「ふみきよ、漫画家になりたいんやったら親父を倒してみぃ!」と。
「えっ!? そんな無茶な・・・いま目の前で見たじゃない・・・」
焦る私は背中を押され父の前に・・・。
父は知らん顔で笑っているだけ。 その顔を見た私は思わずムカッと・・!
《 ええい くそぉ!
俺だってケンカは誰にも負けたこと無いし、
腕相撲だって親父以外は負けたことないんじゃけぇ! ! 》
父の前で両コブシをつき、仕切りました!!
無表情の父は中腰で受ける構えでいる。
「クッソ〜〜! ! やってやる〜〜っ! ! 」
第7話「相撲」 第8話につづく。
2010年
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06日
火
第6話「採用通知、そして・・・」
父の仕事を手伝い始めて1ヶ月が過ぎた頃、憧れの【かざま鋭二】師から
待ちこがれていた返事が届いたのです。
採用か、不採用か・・・この手紙で俺の人生が決まる ! !
《 お願いです、かざま先生! アシスタントにして下さいっ ! ! 》
手を合わせドキドキしながら震える手で開封・・・
焦りながら『採用』の文字を探す・・。
1枚目は同封した絵のことを褒めてくれている・・2枚目・・は・・ない・・
『採用』の文字が見つからない・・・! と、・・目に飛び込んだ最後の行に
【16歳の君をアシスタントとして受け入れるには、
御両親の承諾書を希望します。
それを条件として『採用します』。】
「やったあ〜〜〜っっ ! ! ! ! アシスタントになれるっ ! !
これで俺も漫画家の仲間入りだぁっ ! ! 」
大はしゃぎで飯場の回りを走り回り、晩飯を食べるのも忘れていました。
実はそこからが大変だったのです。
父に手紙を見せてすぐにでも東京に行けるものと思っていました。
ところが・・・
「許さん! お前は儂の跡を継げ! !」と、ひと言。
手紙を見ようともしてくれません。
「儂の作った物を全部お前にやるから跡を継げっ! !」と、言ったきり口をきいて
くれません。
それからは起きてから寝るまで、父の顔を見るたびに
「漫画家になりたい! ! お願いです東京に行かせて下さい! !」と、
1日何十回言ったか分かりません。
若い衆とは酒を飲んで笑って・・いつもの親方ですが、
私が何を言っても聞こえないふり、知らんぷりの父でした。
2日・・3日・・・このままでは俺の漫画家の姿は見えない!
何か作戦を考えなきゃ・・・! !
数日後、昼飯が終わったあと午後の仕事入りまで時間があったので、
若い衆が相撲を取っていました。
力自慢の若い衆が自慢げに父に言いました、
「親方、どうよっ!」その誘いに父は・・・
「儂に勝ったら今夜のみんなの請求書(飲み代の)を 持ってこい!」と。
それを聞いて力自慢の若い衆は鼻息が荒くなり“ただ飲み”を期待し興奮している
若い衆達の盛り上がりは最高潮に達しました。
当時、大卒サラリーマンの初任給を若い衆は数日間で酒と女に使い果たして
いましたから、その盛り上がりは当然です!
『若さと力を持て余している若い衆』対『160センチ・40歳の親方』の勝負。
土俵上の見合った二人・・・。
『八卦よ〜い・・・のこったぁ!! 』
がっしりと右四つに組んだ瞬間、私にはこの勝負の結果は見えていました!
どうやら冷静に判断しているのは私だけのようでした・・・。
第6話「採用通知、そして・・・」 第7話につづく。
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第5話「父との約束」
父の言い分はこうでした。
「お前が勝手にしたことは、食らわしたビンタの分で許してやる。・・・が、しかし
落書きで生活するっちゅう訳の解らん事は認めんっ! !」と、 さらに父は・・・
「学校を辞めた以上は地に足着けて働けっ! !
儂の後を継いで、働くことの辛さ、ありがたさを思い知れ、解ったなっ! !」
有無を言わさず強制連行でした。
父の仕事は鳶職で、たえず20人〜30人の若い衆を抱え日本中を飛び回っていました。
その当時は ”香川県坂出” に現場が出ていて、強制連行の行き先でした。
学校を辞めた三日後、父に連れられ ”坂出” の現場へ。
プレハブ造りの飯場が目に入った時に覚悟はしました・・・。
「三ヶ月間だけここで我慢すればいいんだ、たった三ヶ月間だけ・・そのあとは
夢の東京だっ! 漫画家の都・とうきょうだぁ〜〜〜〜〜っ! !」
「三ヶ月なんてあっと言う間さっ! !」
翌朝から過酷な肉体労働が始まったのです。
朝7時には起きて朝飯を食べ、8時には現場に入る。
昼までの4時間をみっちり働き、
クタクタ状態で昼飯にありつく、1時には現場に入り再びガッチリ肉体労働を。
5時に終わり疲れ切った体を引きずる様に飯場に帰り、晩飯を食べ、
眠いのを我慢しながら鉛の様な体を風呂につからせ、布団に潜り込む・・。
親方である父から「息子を甘やかすな」と、言われていたため若い衆達も一切の
手加減はなく一人前の人足として対するので、そのキツさは生半可ではなかったです。
経験して初めて父の仕事の大変さを味わいました。
しかし不思議なもので一週間もすると体の方は慣れてくるのです・・。
体は引き締まり筋肉質になっている様に感じます。
このままでは指先の繊細な動きが出来なくなり、
細かい線が引けなくなって行く気が・・・。
焦った私は【かざま鋭二】師に弟子入り志願の手紙を送ることに決め、
漫画に対する自分の熱い想いを必死で綴りました。
自分の作品を同封し郵便局へ・・・
局員に手渡したとき思わず手を合わせたことを今でも思い出します。
憧れの【かざま鋭二】師から、待ちこがれた返信が届いたのは
父の仕事を手伝い始めて1ヶ月が経った頃でした。
アシスタントに採用してもらえるのか・・不採用なのか・・
ワクワクドキドキ・・・震えながら手紙を開封・・・
焦りながら『採用』の文字を探す・・。
さあっ、どうなる16歳の俺 ! !
第5話「父との約束」 第6話につづく。
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第4話「説得」
私のくだらない【生い立ち】にお付き合い下さっている貴方様、
ありがとうございます。 そろそろ疲れていませんか?
こんな感じでダラダラと続きますが、適当な所でやめてくださって結構ですよ。
またお時間のある時、暇を持て余した時に「ひまつぶしにチョット読んでやるか」
ぐらいのお気持ちを頂ければ幸せです。
では [ 第4話 ] に入ります。
生まれて初めて怖い母を目の前にしました。
「説明しなさい」と、穏やかな声で言う母に、どう説明すれば良いのか分からず、
やぶれかぶれに「漫画家になりたいけぇ学校止めたっ! !」
「まんがか? なんかねそれは!?」と、首を傾げる母。
それもそのはず、当時 (今から40年も前の話ですから) は漫画家なる仕事は世間的に
全く認知されていませんでしたから。
私も漫画を描いている所を親に見せた事も、話した事もありませんでしたから
当然の反応です。
「漫画を描いてその原稿料で生活したいんじゃぁね!」と、私。
「あんたぁバカかね! 何処の世界にそんな商売があるもんかねっ!
第一、漫画を描いてお金が貰える・・なんちゅう話は聞いたもないがねっ! !
馬鹿な事言うとらんで学校に行きなさいっ! !」と、呆れ顔の母。
(そんな馬鹿げた会話が・・・と、お思いでしょうが当時の時代では真剣な会話なんです。)
私としてはここで負ける訳には行きません、漫画家がどういう仕事をするのか
夕方までかけて説明をしました。
物語を考え、せりふを考え、コマを割って、絵を描いて、漫画が成立する事を説明。
その原稿を出版社が買ってくれる、それが原稿料になる。
つまりサラリーマンの給料と同じ事だと説明。
しかし母にとっては [ 漫画 = 落書き・イタズラ書き ] と言う感覚でしかなく、
それが [ お金 ] になる事がどうしても納得出来ないようで、理解してもらうのに
3日かかりました。
翌日、香川県の現場から帰って来た父にはいきなりビンタを食らいました。
これが生涯2度目の父からのビンタ・・・今でもあの時の痛さは覚えています。
学校から連絡があり、保証人の(はんこ)がないと認められないとの事。
そうでした! 入学の際、保証人が必要だったのですから、当然退学のときにも
保証人の(はんこ)は必要ですよね。
さあ〜て・・・本当に大変なのはここからでした。
保証人になってくれていた叔父はとんでもない頑固者で有名でした。
この叔父を説得するのに3日間、朝から家に行き事情を説明・・・昼になると
「親不孝な奴に食わせる飯はない、1時間後にまた来い!」と、いうのです。
1時間後に叔父宅に行き、それからまた夕方まで説明・・・同じ事を何度も繰り返し、
繰り返し説明する・・・。
晩飯時も1時間後に来い、と・・・夜も10時頃まで説明の繰り返し・・・。
2日目も説明の繰り返し・・・叔父は「ふんふん・・ほお〜っ・・それで?」を
繰り返すだけ。(いつもの手です!)
叔父の考えは解っていたので、こうなれば根比べです! !
自分の考えや夢を、漫画のことを喋りたい放題しゃべりまくりました。
3日目も [ 16歳の夢話 ] を喋りまくり続けました。
同じ事を繰り返し、繰り返し・・・の根比べです!
「晩飯を食ってこい!」の時間になり、「飯食ったらしゃべり倒してやる!」と、
意気込んで家に帰ると母が
「叔父さんが退学届けを持って来いって言うちょるよ」
「ほんまにっ!?」と、母に聞き直し、叔父の家に走って引き返し台所に突入! !
「食べ終わるまで待っとけ!」と、叔父。
「はいっ! !」と、返事する笑顔満面の自分が見えるようでした。
叫びたい気分でした。
だって今この瞬間から、自分の夢がスタートするんですから! !
食事が終わるのを待って(はんこ)をもらい飛び出して大声で叫んでいました。
今日、たった今から【漫画家への夢】に向かって突っ走るぞぉっ! !
・・・と、意気込んで家に帰ると・・・父が・・・!?
「うっそだろぉ〜〜〜っ!?」「そりゃないよぉ、父さ〜〜〜んっ! !」
第4話 「説得」 第5話につづく。
2010年
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第3話「決意、計画実行・・・事件発覚」
中学生になった漫画バカは、漫画ばかり勉強していました。
中学2年生の時「漫画家になろう!」「漫画を描いて飯を食って行こうっ! !」と、決意する。
3年生になると高校進学の話が出始め、親も担任も当然のように私が進学するものと
思い込んでいる。
私は進学する事よりも1日も早く東京に出たい想いが強くなり、ある計画を実行!
高校受験日当日、答案用紙を全て白紙で提出する!
今考えると何て幼稚な抵抗を・・・と、思いますが、当時はこれが精一杯の抵抗で、
【 白紙 = 落ちる = 東京に行ける! ! 】と、浅はかな考えが唯一の・・いえ、絶対の方法だと
思い込んでいましたから!
3日後、中学担任から呼び出され2時間の正座・・この時人生最大の肉体的苦痛を経験する。
高校から合格通知が届く。 世の中の《不思議》と《仕組み》を初めて体験すると同時に、
人を恨む事もちょっぴり覚えた気が・・・でもとても優しい担任の先生でした。
今では想い出すたびに感謝の気持ちでいっぱいです。
(しかし今の時代では考えられない事ですね、時代に感謝! 関係者の皆様に感謝!)
仕方なく高校に入学、新担任から「我が校始まって以来の白紙答案事件の罰 ! !」と、言われ
1年間の委員を命じられ、しぶしぶ承諾する。(実は程々成績も良かったんです。)
毎日真面目に通学するが物足りない高校生活・・でも学校が終わると同時に最高の時間が
始まるのです! クラブ活動には入っていませんでした、だって部活の時間が勿体なくって!
そんな訳で、いつも一番に教室を飛び出していた記憶があります。
自転車で全力疾走、9キロの道を20分!
家に帰るなり机に向かう・・・いえいえ勉強ではありません!
ひたすら漫画を描いているだけです。 夜中の2時頃まで夢中で描いていましたね。
この頃、ラジオとの出会いがあったのです。
面白い深夜放送を探し、たどり着いたのがニッポン放送の [ オールナイトニッポン ]
でした。 東京の番組を山口で聞くのですから、音が小さくなって聞こえなくなったり
して・・・そのたびにボリュームをひねっては耳を近づけて聞いたり・・・。
あの頃は自分のしたい事だけをして、自由にのびのびと漫画だけの楽しい毎日を過ごして
いたなぁ! (チョットうらやましく感じる今現在の自分がですが・・。)
あと1ヶ月で1学年が終わると言うときです、
「こんな生活をまだ2年も続けるのか・・・」と、真剣に悩みました。
そう考えるとどうにも気持ちを抑えることが出来なくなり、「 やめたっ! ! 」
自分の中の何かが爆発したと同時に退学届けを書く。 翌朝一番のホームルームで
担任に渡し「1年間ありがとうございましたっ!」と、頭を下げそのまま自転車にまたがった。
《親はこれから説き伏せればいいや!》なんて気楽に考え、これからの自分の未来に
胸をふくらませながら最高の気分でのんびりと家路に。
「ただいま〜っ!」とルンルン気分で玄関を入ると・・・! !
そこには仁王立ちの母が ! ! 初めてみる母の怒り顔に正直びびりました。
この場をどう回避すれば良いのか、 頭の中に用意していた言葉がぐるぐる走り回るの
ですが何も言えず、気が付くと畳の上に正座をしていました。
無言の母を恐怖に感じるばかり・・・どうすれば・・・何を話せば・・・。
その時、「説明しなさい」と母が、穏やかな声で。
さあ、どうなるっ!?
第3話 「決意、計画実行・・・事件発覚」 第4話につづく。
2010年
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第2話「漫画バカ誕生」
漫画好きの最高に幸せな時間はず〜〜っと続いていました。
そうしているうちに読むだけでは飽きたらず、いつの間にかノートや教科書は
漫画で埋め尽くされるようになります!
一番よく描いたのは [ 紫電改のタカ ] だったなぁ・・・。
(紫電改)と(グラマン)の違いを描き分けて同級生達に自慢していましたね!
小学5年生の頃 [ボーイズライフ] と言う若者向け雑誌が創刊され、情報記事満載、
漫画も盛りだくさんだったように記憶しています。
当時としては時代を牽引する最先端の雑誌でした。
中でも私が大好きだった漫画連載があったのです。
若き実力派劇画家・さいとうたかを氏が [007 シリーズ]を描いていて、
それが読みたくて隠れて立ち読みを・・・。 5年生の私には、[ボーイズライフ] を
隠れて読むことが “ちょっと大人の仲間入りした気分” がして好きでした。
貸し本屋のオヤジに見つかり、いつも怒られていましたね。
さいとうたかを氏の連載は、その後 [ 挑戦野郎 ]へと続き、立ち読みの日々も続きます。
当然、貸本屋の親父との格闘も続きました。
1960年代は「月刊誌」や「週刊誌」が時代の波を変えようとする頃でもありました。
子供なりにその波を感じながらページをめくった記憶が今でも鮮明に残っています。
当時の貸本屋の存在はまだまだ大きく、小説・婦人雑誌・漫画雑誌・等々、
月刊・週刊の読み物、活字媒体の殆どのものが揃っていて、 大人も子供も一冊5円で
一泊二日間、小説などは10円で二泊三日間の貸し出しを受けるシステムでした。
我が家のすぐ近所にも貸本屋さんがありました。
当然私が手を伸ばすのは漫画の棚! あの頃の漫画と言えば【単行本漫画 】! !
当時は 単行本漫画全盛時代が続いていましたから。(なつかし〜)
時代劇漫画も沢山あって、白土三平氏、平田弘史氏、の二大巨匠がいました。
刑事(でか)シリーズには、さいとうたかを氏、さいとうプロダクションの若手三人衆
など色々な漫画家達がペンをふるっていました。(なつかし〜〜!)
影男シリーズは[堕靡泥(ダビデ)の星] で知られる、故・佐藤まさあき氏。
佐藤プロダクション発行、セブンティーン等では、わたなべまさこ氏、花村えいこ氏、
川崎三枝子氏など、異色な所では楳図かずお氏などが活躍。(なつかし〜〜! !)
当時「りぼん」「マーガレット」「少女フレンド」等の雑誌も創刊されていた記憶があります。
同郷で尊敬していた水野英子氏がこれらの雑誌で活躍していました。
(※なにぶん私の記憶だけで書いていますので、年代に多少のズレがあるかもしれません、ご容赦を。)
おぉっと・・・いけない、思い出話に浸り切ってしまう所でした。
好きだった漫画は数え切れないほど! いろいろな漫画に沢山の思い出があります。
書き出せばきりが無いですね、思い出は後日あらためて。
そんな風に漫画一色の生活が続き、気が付くと中学生に・・・。
多感な時期を迎え、女子を意識し、恋を知り、少しずつ大人へと・・・の筈でしたが、
漫画少年は漫画バカのまんまで、女の子に興味を持つこともなく、ひたすら漫画を
描き続けていました。
さてさて・・・この漫画バカは一体どうなるのでしょうか。
「第2話 漫画バカ誕生」 第3話につづく。
2010年
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第1話 漫画との出会い。
昭和28年8月生まれ。
戦後の復興も一息つき、世の中が平穏を取り戻し始めた頃に元気な産声を上げました。
祖父の名前の一字と、父の名前の一字をとって名付けられた。
後にその理由を聞いたら「あの頃は忙しくって面倒くさかったからねぇ」と、母の答え。
仕方ありません・・・まだまだ世の中は貧しく、食うために忙しかった時代です。
田舎に生まれ育った私は裸足で走り回り、裸で川に飛び込んだものです。
そう言えばいつも腹を減らしていた記憶がありますね・・・食べ物もあまり無い時代
でしたし、みんなが腹を減らしていたので、それが当たり前だと思っていました。
そんな子供達にとって空腹を満たしてくれたのが「山」であり「川」でした。
山菜、いたどり、山いちご、びわ、梨、柿、アケビ、栗、きのこ取り・・・
川では鮒、鮎、鰻・・・川魚を竿や仕掛けで捕り、毎日大漁でした。
鮎や鰻が高級な魚だと知ったのは、東京に出てからでした。
「都会の人達は貧しいんだなぁ」って言ったら怒られたのを覚えています。
(今では笑い話ですが。)
そんな遊びに夢中だった小学校1年生の頃、
4歳年上の叔父が学校から帰ってくると自慢げに「見ていいぞ!」と
1冊の本を私の目の前に出したのです。
のぞき込んで見ると【少年サンデー創刊号】と書いてありました。
「そう・かん・ごう・っちゃ、なんね?」
「馬鹿じゃなぁ、創刊ちゅうのは新しゅう出来た漫画本のことっちゃ!」
初めてみる漫画に驚き、ひたすら感動し、何度も何度も読み返したのを覚えています。
その後叔父は時々【少年サンデー】を持って帰って来ました。
やがて【少年マガジン】も持って帰る様になったのですが・・・ある日、
叔父に素直な質問をぶつけました。
「どの漫画を読んでも全部続きになっとんやけど、あんちゃんが持って帰ったんを
見るけんど話がわからん、なんでやろ?」
「バッカじゃのぉ、週刊誌じゃけぇじゃろがぁ! 毎週買う小遣い持っとらんけぇ
無理じゃ!」
それからは続きが読めるように二人で小遣いを貯めました。(必死でしたね。)
漫画に取り憑かれてしまったのは言うまでもありません。
[イガグリ君] [あんみつ姫] [ロボット三等兵] [鉄人28号] [鉄腕アトム]
[スポーツマン金太郎] [ワンダー3(スリー)] [スリル博士] [宇宙少年ソラン]
[伊賀の影丸] [ちかいの魔球] [紫電改のタカ] [ 黒い秘密兵器] [赤同鈴の助]
[無用の介] [おそ松くん] [オバケのQ太郎] ・・・等々、
書き上げればキリが無くなる程記憶に残っている漫画達。
[少年ブック] [冒険王] [少年画報] [少年] [ぼくら] ・・・そして
[少年マガジン] [少年サンデー] へと・・・小遣いをすべてつぎ込み、
片っ端から読み漁ったものでした。
漫画少年にとって毎日が最高に幸せな時間でしたね、だって僕の頭の中では
自分が “イガグリ君” になって柔道をしているし、
“金太郎” になって野球をしている。
どれも知らないスポーツだけど自分がヒーローでいられる時間でしたから。
そんな最高の時間はずう〜〜〜っと、続きます!